暗闇の魔窟

 曇り空を見上げ煙管があるべき場所に自然に伸びる手に気が付いて、短く舌打ちした。そこに、煙管はないからだ。
 破壊されて見る影も失った斬首台の横で、兵士が震えていた。毛深い狼の獣人だろう兵士は鎧の留め金が打ちあって、耳障りな音を立てているのにすら気が付かない。俺が静かに兵士を見下ろすと、兵士は喉に詰まって窒息するような声を上げた。人ならざる目の真下まで切れ込んだ口が小さく開き、鋭い牙を擦りながら呪文のように言う。
 将軍。許してください。許してください。と。
 頭を棍棒で殴られ続けるような頭痛にまで悪化した苛立ちが治まらない。周囲をぐるりと見遣ると、他の兵士達も怯えたように悲鳴を上げた。
「全く、どっちが虐げてるか判らねぇな」
 再び見上げると曇り空を切り抜き俺達を見下ろす為に、見張りの塔がある。塔の黒い影から浮かび上がるように、石の町でグビアナで出会った豚頭のゴレオンが現れた。体格の良い大男二人を並べたような巨漢は、隣に進み出た狐の兵士に『彼奴を下げろ』と言いたげに顎をしゃくる。そして狐はその見た目通り俊敏な動きで、震える狼を塔の中に引きずり込んだ。
 見苦しい者が失せたからか、豚頭はそのでか過ぎる鼻を鳴らして溜息を吐いた。
「もう今日の作業は要らん。夕方になったら人間共を牢屋に放り込んでおけ」
 豚頭は再び見張りの塔の中に引き返す。兵士達もその言葉に持ち場を放棄し、蜘蛛の子を散らすように視界から消えて行った。
 危険が去ったのを感じて、緊張が緩むと俺に向かって小柄な影が駆け寄って来る。
「ケネスさん!」
 ぼふっと俺の腰にアインツが抱きついた。あんなに艶やかだった髪はぼさぼさと縄みたいに絡まり、色白の肌も汚れから黒っぽくなっている。鮮やかな緑の瞳の下にくっきりと浮かんだ隈は哀れなくらいだ。アインツは碧の瞳を精一杯怒りに尖らせて、腕に力を込めた。
「一人じゃ危ないじゃないですか! 怪我してもホイミだけですよ!」
「はいはい。怪我してないから」
 いつものお節介なアインツの頭を軽く撫でてやる。俺のその仕草に安心したのか、彼女は表情を和らげて腕を放した。
 俺の隣に居場所を定めたのかちょこんと並んで立つ姿を、俺は盗み見た。背丈も雰囲気も変わらず、特に病気らしい様子も無いアインツ。しかしこの牢獄に来てから、頭を撫でる事で手の平に違和感を感じるようになった。サラサラではなくなったが黒髪の下の形の良い丸い頭。その頭に瘤が出来ているのだ。1つではないし、徐々に大きくなっている気がするのだ。それを確かめる為に撫で回す事は気が引ける。それに最近肌色が悪い。それもこの不衛生な牢獄で生活している故の汚れかも知れないと疑えば、納得してしまう程度だ。
 苛立ちと不安は相乗効果だ。俺は奥歯をゆっくりと強く噛み締める事で、煙に撒けず膨れ上がる苛立ちを少しでも潰す。
「おぅ、ケネス! 今日も派手にやらかしたな!」
 野太く良く響く男の声が、調子良く背中を叩いた。俺とアインツが振り返ると、そこには豚頭に引けを取らない縦にも横にも大きい巨漢が立っている。
 彼はここに連れて来られた人間でもかなりの古株に属する、アギロと言う男だ。武芸を究めた程度では得る事の出来なさそうな筋肉隆々の胸板、大木の丸太に匹敵する腕と脚、顔つきは泣く子も黙るような強面だ。申し訳ないがお世辞にも知的な印象がない外見ではあるが、声は穏やかで口調も紳士的、見た目通りの豪快さがあっても状況判断も感情に簡単に流されない。実際、この場に集められた人間達のリーダー的存在を担っている、頼り甲斐のある男だった。
 アインツがぺこりとアギロに頭を下げた。
「御陰様でケネスさんは大丈夫でした」
「はっはっは! どっちが保護者だか分からんなぁ!」
 アギロが笑い飛ばす声が、瘴気で最悪の空気の中で気持ちよい程の大音量で響き渡る。
 全く、とてもじゃないが笑ってられる状況じゃねぇよ。俺の苛立ちは最高潮だ。煙が吸えないのが拍車を駆ける。
 カデスの牢獄。そう呼ばれる場所に俺はアインツと共に放り込まれて、半月は経っている。一月超えたらきっと、分からなくなってしまうだろう。だが、それまで生きていられるかは正直自信がない。それほどに過酷な環境だった。
 吹き込む風は嫌な咳を堪えられない濃厚な瘴気を帯びていて、乾燥して冷たい北風である事が多かった。日が昇っても太陽の光は滅多に降り注がず、分厚い紫色の雲に遮られている。雨が稀に降り注いでも、それは今まで嗅いだ事のない酷い匂いで肌に火傷の痛みを感じさせた。一度見渡す事が出来た日に目にしたのは、不毛の大地と不気味な城だけだ。
 連日のように誰かが埋葬され、時折、1人2人、団体と連れて来られた。
 ドミールの里で空の英雄グレイナルを殺害しようとしていた、ガナン帝国の連中と鉢合わせをした。グレイナルは残念な事に殺されてしまったが、誰が英雄の死を止める事が出来ただろう。後悔と絶望に膝を折ったドミールの民達の間を縫って、その時の俺は里を駆け下りていた。グレイナルに引っかかり、そして振り落とされたアインツを探す為だ。
 意外に早く見つかった事に安堵してるのを、今でも覚えている。
 問題はその後だった。ガナン帝国の連中は、抵抗の激しかった里の戦士を無視してアインツと俺を捕らえたのだ。無論、逃げたさ。兵士共を半殺しにして、アインツ抱えて相手を撒く自信はあった。空から追尾する、あの黒竜がいなければな。
 ぎりっと奥歯を噛む。
 捕まる際に負った傷が痛む。回復呪文の体力消耗を考えて、アインツには少しずつホイミを施してもらっているが、それを差し引いてもここに来た時は重傷だったのだ。生きていれば状態は拘らなかったんだろう。
 俺が思わず漏らした呻き声に、アインツは心配そうに見上げてきた。
「傷が痛みますか?」
「大丈夫だ」
 痛みというよりも悔しさだ。生憎、傍にはボコボコにできる兵士が居ないので、この悔しさを晴らす手段がない。兵士が居ない状況を見ていたのは俺だけではなくアギロも同じだった様で、アギロは塔から死角になる位置に俺達を歩かせると、楽し気に屈み込むように顔を寄せた。
「元気そうなら、探検でもしてみないか?」
「探検ですか?」
 アインツが首を傾げ、俺も不審を隠さずアギロを見た。牢獄と銘打つだけあって四方は高い壁だけでなく魔法の障壁まで施され、出入りは馬車等が出入り出来る大きな入り口のみだ。そこも見渡しが良く隠れる場所はない。内部も非常に頑丈な礎からなっているらしく地面は掘る事も出来ず、積み上げられた石も壊せる代物ではない。隅々まで見て回ったが、探検して新しく見つかるような場所はないだろう。
 俺の思いを察したのか、アギロは含み笑いを浮かべる。カラコタ橋の裏手で出会って脅されたとしても、全く違和感の無い顔である。
「あの見張り塔のエリアは、魔法の障壁があって俺達も出入り出来ないってもは知ってるな。あれには仕組みがある」
 そう言ってアギロは俺達の前に勲章の一部なのだろう、メダルをちらつかせてみせた。赤錆て年季が入ってるどころか、腐食してゴミ一歩手前と言ったメダルだ。
「これはガナン帝国の紋章。兵士達1人1人に支給されている。最近、ケネスの兄ちゃんが兵士達を転がしてくれるんでな、うっかり落としちまった所を優しい俺が拾ってやったのさ」
「それは盗んだって言うんじゃねぇのか?」
「いやいやいや。後で持ち主に返してやるさ。俺達があの見張りの塔の中を拝見させてもらった後で…な」
 変に真面目なアインツが反論しないのは、兵士が全員見張りの塔に引き蘢っちまった以上、返すのならば入らなきゃならねぇと考えているからだろう。アインツが頑固さ全開で拒絶しないのなら、俺が拒否した途端に『一緒に行ってみれば良いじゃないですか』とか言われちまう。アインツの行動を誘導しちまうたぁ、見た目以上に賢くて強かなおっさんだ。油断ならん。
「どうする?」
 自信のある笑みを浮かべるアギロを、俺は険しい表情で見た。
「俺達に頼む理由が分からん。ここに来て半月程度の俺達が、あんたの信頼を得ているとは思えん。戦力になるって理由なら尚更御免だぜ。立場が危なくなってぽいっと見捨てられちゃあ困る」
「ケネスさん。アギロさんはそんな事をする人ではないですよ」
 アインツが俺の袖を引いて言うのに対して、アギロは苦笑したように言う。
「…そうだな。答えになるか分からんが、これは俺の勘だ。二人を連れて行けば、この状況が動くって俺の長年生きた勘が告げてるんだ。避けられない障害を越える為に進路を決める時、俺は自分の勘を信じてる。俺を導き生かしてくれた、運命を疑う事を俺は絶対にしない」
 大きな手は言葉を紡ぎ切って向けられた。俺の手さえすっぽりと包み込んでしまう手は、胼胝で硬くなり節くれ立った手だった。武器を持つ者の手ではなく、一番近いのは船乗りの手だ。舵を握り進行方向を維持しない為に力を込め続ける手は、確かにアギロの手に似ていた。
 アインツは躊躇いなく握った。お願いしますと早速挨拶してる。
 俺は1つ息を吐く。先程の言葉に偽りがなさそうだからな。とはいえ、野郎の手を握る趣味はないけど。
「分かった。あんたの言葉を信じよう」
「決まりだ」
 そう言うとアギロは死角になって丁度見えない塔を指差した。
「このメダルを持っている者は魔力の障壁を越えられる。そして障壁を超えた後は、持ってなくても留まる事が出来る。それは拝借した後の兵士の行動で確認済みだ。そして兵士達は塔を含む障壁の内部と、牢獄から外へは全く監視しない。俺達が障壁を越えられないって事実が、奴らの警戒心を緩くしているんだ」
 そこで堪えるようにアギロは笑う。
「奴らは俺達が作業をしているかどうかを監視し、ちょっとヘマをすれば痛め付ける為に見張っている。兄ちゃんに痛め付けられてビビってる以上、奴らの見張りなんて全くしちゃいないさ」
「それでも、警戒はするべきだとおもいます」
「当然そうだが、塔の真下の影に身を潜めているだけで十分身を隠せるだろう。1人ずつメダルを持って障壁を越える。超えて身を隠せる場所にたどり着いたら、メダルを次に越える者に渡して…って手筈で順番に越える」
 塔が見える位置に移動して見上げてみれば、なるほど、見張りの影は全く無い。
 アギロの作戦に俺は賛同するように頷いてみせた。アインツが頷き、アギロは満足そうに俺達を見た。
 その後の行動は素早かったの一言だろう。アギロはその巨体には見合わず、猫のように足音を立てずに障壁を超えて塔の影に紛れた。アギロの投げて寄越したメダルを手にアインツは羽のように軽い足取りで、それでも風に乗るように塔の影に消えた。そして俺の所にメダルが来た時には、俺も難無く障壁の前に躍り出た。
 障壁は金色の薄い膜のようなものだ。突破しようと触れた時は電流でも流されたような、言葉にできない痛みが身体を貫いたのを覚えている。意識が一瞬でも刈り取られ、後ろにぶっ倒れる痛みだった。しかし、メダルを握りしめて障壁を突破する時は、まるで霧の中を進むように何も感じなかった。
 振り返ると何人か俺達の行動を見ている人間は居たが、彼等は誰1人指を指さず発言もしなかった。普段通りの光景だ。
 恐らく、アギロが前もって根回ししていたのだろう。俺達に直前に持ちかけたのも、暴れて目立つ俺やその傍に立つアインツの挙動から、今回の『探検』を察せられたくなかったからかも知れん。
 俺は腰を低くして塔の影に駆け込んだ。兵士達に気が付かれていない事を確認して、アギロは声を顰めて言った。
「この牢獄の構造上、塔から下に広がる地下階があると睨んでる」
 そしてアギロは念を込めるように言った。
「もし、金色の笛を見つけたら奪ってでも手に入れて欲しい。大事な物なんだ」
 アギロの言う金色の笛は、横笛ではなく短いホイッスルタイプだと付け加える。アインツは分かりましたと素直に応じ、俺も大事なものじゃあ仕方が無いと頷いた。俺達の返答に少しホッとした様子を見せたアギロに、俺は少し安堵した。奪ってでも手に入れるという事は、侵入しそれが発覚するリスクも辞さない事になる。今までの油断も隙も信頼もできない男の印象が、人間臭くようやく感じられた。
 アギロが立ち上がり塔を見上げながら、さぁ、行こうと身振りをした。
 人が入る事の出来ないよう鉄格子を嵌めた窓から中を窺うと、一階はどうやら倉庫のようらしく兵士の姿は見えない。本棚や壷や樽が無造作に置かれているそこは、身を隠す事も簡単そうだった。図体のでかいアギロを思ってか、小柄なアインツが中を調べに塔の中に入って行った。
「ケネスの兄ちゃんは、アインツって子と長い付き合いなのか?」
 アギロの問いに俺はうーんと唸る。
 セントシュタインの宿で出会ってから、なんだかんだで腐れ縁みたいな感じだ。ちょっと常識のズレているアインツのお守りみたいな立場だが、彼女自身の実力も行き先の雑魚い魔物を転がす程にはある。俺が守ってやらなければならないのは、悪い考えを持っている人間達からだろう。
 だが、アインツは俺の事をどう思ってんだろうなぁ。
「知り合って一年程度だ」
「そうか」
 アギロの彫りの深い厳めしい面構えが、真剣さを増した。その瞳に浮かんだ感情を俺は理解してやれなかったが、その感情がアインツに向いているのだろうとは話の流れから感じられた。
 そういえば、リッカちゃんが言ってたな。アインツは何処から来たのか分からないし、アインツ自身も全く触れない。家族の元に戻ろうとも言わないから、宿を手伝わせちゃってなんだか申し訳ないって。
 俺はアギロを見上げて訊ねた。
「アインツの知り合いなのか? 彼女の故郷を知っているのか?」
「俺が一方的に知ってるだけで、あの子はきっと俺の事は知らないな。故郷は知ってる。だが、今の状況じゃあ、帰る事はできないさ」
 アギロは丸太みたいに太い腕を組んで、そう答えた。そして俺の頭をわしわしと撫で回す。
「あの子は兄ちゃんを随分と慕ってるみたいだな。あの真っ直ぐで優しそうな様子を見れば、関係に恵まれたって俺だって分かる。ありがとうよ」
「礼を言うなら頭を撫でないでくれ」
 アギロはでかい手をようやく頭から離すと、全く悪びれた様子も無く平謝りだ。
 そこにアインツが戻って来た。俺のさらにぼさぼさになった頭を首を傾げて見上げてから、偵察の成果を報告する。一階から上に上がる階段と、下に下りる階段があり沢山兵士が集まっている事。連れて来られた人間のコックが忙しそうに働いていて、もう少ししたら昼飯の時間になって兵士達が食堂に集まるだろうと。
 俺達が時間を見計らって忍び込めば、兵士全員が食堂に集まっていて見張り一人いなかった。牢獄の外に逃げ出す者も、塔の中に侵入する者もいないだろうと油断し切っているのだろう。舐められたもんだが仕方が無い。アギロがちょっと兵士から紋章付きのメダルを拝借しなければ、ここに忍び込む事すら不可能だったからな。
 塔は牢獄と繋がっている部分が二階に属し、さらに上の階に見張りが立てるようになっている。一階が食堂や詰め所になっているようで、詰め所には豚頭が座るんだろう立派な椅子が置かれている。厨房には俺達のように捕まったコックが足枷をされて疲れ切った様子で働かされていた。疲れ切ってて、パンとウィンナーを失敬する俺にすら気が付けないと来た。更に下には兵士達の居住スペースがある。獣臭くて居られねぇ。
 居住スペースの行き止まりまで来て、俺は振り返る。
「なんか、ここ、変じゃないか?」
 整然と並んだベッドが壁付けされている居住スペースだ。床には雑魚寝の為の粗末な布団が散乱している。ベッドの使用が許された者は下に私物が置けるらしいが、個人持ちの棚等は認められていないようだ。環境的には兵士は俺達と大差ないようだな。
 しかし、不思議なのは居住スペースの空間の使い方だ。まるで大きい荷物でも運ぶ予定でもあるのか、行き止まりまで真ん中が大きく開けられている。布団を捲り上げれば、轍のような擦った跡が石の床に刻まれている。そしてその擦った跡は行き止まりの壁に吸い込まれている。
 アインツが更に壁際の布団を捲ると、何かを見つけたようで俺達を見る。
「壁が動くみたいです」
「慎重に開けてみてくれ」
 アギロがそう言うと、アインツは慎重に壁を動かした。でかいアギロ一人分が通れる隙間が、仄かな光が漏れる闇を覗かせた。丁度身を隠す事も出来るだろうと、俺達は目を交わして直ぐさま隠し扉の中に入り込んだ。アインツが忍び込んだ形跡をなるべく目立たなくさせて扉を閉めると、俺達は深々と息を吐いた。
 予想以上に奥まで立ち入る事が出来たが、帰りはどうするんだろうな? 俺は急に不安を感じる。
 だが、忍び込む事も拒否して今を維持していたら、いずれ俺もアインツも埋葬された奴と同じ道を辿る事だろう。兵士に殺された方が、楽な死に方ができるだろうな。そこまで考えて唇の端を持ち上げる程度でも笑みが浮かぶ。苛立ちも目の前の事で大分薄れて、余裕が出て来たんだろう。
 そんな俺の視線の先で、アインツとアギロが奥へ進みだした。
 俺もゆっくりとした歩調で跡に続く。隠し扉の奥は窓一つなく、屋外よりも冷えきった空気の中で青白い光が不気味な明滅を繰り返して照らしていた。やはり隠し扉の奥も牢獄であったようで、牢獄の壁が崩れたり鉄格子が外れて牢獄の意味がないものが殆どだ。だが、その牢獄には蜘蛛の糸のようなものがあちこちに張り巡らされていて、その糸が青白く光るようだった。
 いったい、なんなんだ…。俺がそう悪態を吐こうと思った時、アインツが息を呑んで立ち止まった。
 アギロもアインツの後ろに歩み寄って見ると、僅かに目を見開きそれを凝視しているようだ。
「何があるんだ?」
 日差しの強い日光と同じくらいの光が漏れる牢獄を覗き込むと、俺も絶句した。そこには巨大な…人一人分はあるだろう巨大な繭のようなものがある。繭は青白い光を放ち、光が強まると中に包まれているのだろう人影が淡く見えた。天井から蜘蛛の糸によって宙吊りにされている繭は、まるで血管のように光を糸へ流して行く。
 俺が訳が分からな過ぎて言葉を失っている間に、アインツが動いた。その動きは素早く、真後ろに立っていたアギロでさえその腕を掴む事は出来なかった。
「やめろ! 迂闊に触らない方が良い!」
 アギロは隠し扉の向こう側に声が聞こえるかも知れないのも無視して、怒鳴るような大声でアインツに言い放った。こうなったアインツが他人の言葉を聞く訳がないって分かってても、俺も珍しく力づくでも静止した方が良いと思うヤバさである。俺がアインツの傍に駆け寄った時には、アインツは繭に手を掛けていた。
 アインツはまるで真綿を扱うように、軽々と繭を引き千切り始めた。
 真横に立ってアインツの顔を覗き込んだ俺は、正直、繭を見た時よりも衝撃を受けて絶句していた。あの穏やかで何時も微笑んで、どんな困難にも大丈夫だと励ます彼女が…本気で怒っていたからだ。怒りを通り越して憎しみすら滲ませている表情は、いつもの温和なアインツしか知らない俺には衝撃的な顔だった。絶対、リッカちゃんには見せらんねぇ。
 黙々とアインツは繭を引き裂き続けると、中身が見えた。繭に雁字搦めに巻き込まれていた者は、翼の生えた人間だ。頭にゃ弱いが光る輪っかも浮かんでいる。その姿は教会とかのステンドグラスに描かれ、町の最も見晴らしの良い場所に立てられた守護天使の像に重なる。
「…天使?」
 アインツが乱暴なまでの手付きで、最後まで天使に絡み付いていた糸を引き千切った。音もなく無惨な状態にされた繭から、まるで羽の様にゆっくりと天使が崩れ落ちて来る。俺が思わず受け止めると、アインツは助けられた天使に目もくれず隣の牢獄に向かってしまう。
「お…おい」
 俺は抱き留めた天使らしい人間に目を向ける。顔色も悪いし虫の息だが、死んではいないようだ。身体は支えている俺の体温を奪い尽くす程に冷えきっている。繭は天使が引き剥がされると光を失ってしまったが、俺はなるべく天使を繭から引き離そうと牢獄の外に引きずりだした。女性の天使は羽のボリュームや人としての体重を考えても、空気のように軽かった。
 隣の牢獄では引き続きアインツが繭を引き千切っているらしい。アギロも呆然とその様子を見守っていた。
 助かった天使に羽があるとはいえ、うつ伏せにするのも怖いので仰向けに寝かせて隣を覗き込む。そこには最早繭の形も保っていられない無惨な糸の残骸から、アインツが男性の天使をひっぺがす所だった。駆け寄ったアギロに押し付けるように渡すと、アインツはさらに奥に進んで行った。
「まだあるのか?」
 女性の天使に並べるように、今しがた助けた天使を横にするアギロに俺は訊ねる。アギロは苦々しい顔つきで、あともう一つあったと答えた。
「ケネス。アインツはいつも、あんな感じなのか?」
 俺が首を横に振ると、アギロは深刻そうな表情で俺をひたと見つめた。
「お前は何も変わらないか?」
「俺か? 俺は普段手放せない煙管の煙が吸えなくて、イライラしてる事以外は何も変わらねぇよ」
 思い出したら余計、吸いたくなって来ちまった。俺は再び頭を擡げた苛立ちを押さえつける術無く持て余す。
「それは本当に喫煙出来ない為の苛立ちか?」
「…何が言いたいんだ?」
 するとアインツが最後の繭を破壊したらしい。あの小柄な身体では大き過ぎる体格の天使を引き摺って、俺達の元に戻って来た。光は薄らと光る糸のみだったが、あちこちに張り巡らされている関係で暗過ぎる事はなかった。
 最後の一人は中性的な感じの天使だったが、三人とも共通しているのは非常に衰弱している様子だって事だ。肌は乾燥し唇はひび割れ、呼吸は苦しむ事すら出来ぬ程に弱い。頭の仄かに光る輪は風前の灯って感じだな。
 その三人を見下ろして、アインツは震える声で呟いた。
「誰が……誰がこんな事をしたんでしょう?」
 小さい手がぎゅうっと握り込まれ、小刻みに震えている。その震えは全身に行き渡って、アインツが始めて見せる怒りを感じさせた。
「ここに繋がれてたって事はガナン帝国の奴らだろうな。知りませんでしたとは思えん。…しかし、何をしていたんだ?」
 確かに衰弱している。マホトラや強制パサーのように、力を強制的に搾取したってのも理解出来る範疇だろう。だが、その力を何に使うんだ?
 俺が首を傾げている前で、アインツは三人を跨ぎ越し隠し扉の方へ向かう。俺もアギロも驚く傍で、扉が開け放たれアインツは出て行ったしまった。
「おい、アインツ!」
 もう昼食は終えちまっただろう時間だ。飛び出したら兵士達と鉢合わせ間違い無しだろ!
 叫んで呼んでもアインツは引き返して来ない。しかも兵士達の声も聞こえて来た。あぁ! しょうがない! 俺はアギロを見上げた。
「アインツの様子を見て来る。あんたはその三人の様子を見ててくれ」
「分かった…気をつけろよ」
 心配そうなアギロの声に頷いて、俺はアインツの後を駆け出した。
 住居スペースで寛いでいた兵士達は俺の姿に驚きはしたが、既にアインツが通った後は誰もが呆然としていた。最早、なり振り構ってられない。俺は駆け足でアインツを探した。厨房を覗き込み、食堂に飛び込んで、倉庫の樽をいくつも蹴っ飛ばした。最終的に行き着いたのは塔の外だ。
 そこには見た事もない偉丈夫が居た。アギロの屈強な体格でさえもやしと感じる程に、縦にも横にも巨大過ぎる男だ。絢爛豪華な装飾を施した暗めの色合いのローブを纏い、金色の玉の嵌った杖を手にしている。威圧感は凄まじかったが、その偉丈夫の前に立つアインツの怒気も相当のものだった。偉丈夫はアインツを虫けらでも見るような目で見下ろしていた。
「貴方が天使を捕らえて、酷い事をしたんですか?」
「その通りだ。我が名はガナサダイ。ガナン帝国の皇帝である」
 アインツを見つけたというのに、俺は動けなかった。なにか大変なことが起こる前に止めなければという冷静さと、目の前の偉丈夫を殴り殺してやりたいという激情がせめぎあっていた。それは俺の感情じゃない。確かに止めないとって思いはあっても、正体不明の強そうな偉丈夫をいきなり殴り殺そうと思う程に無鉄砲じゃない。そして、その二つの感情に踏み殺されるのは恐怖だ。
 偉丈夫は俺を一瞥し、アインツに再び視線を戻した。
「あの忌々しいレパルドに似た男を殺しにやってきたが、思わぬ収穫があったな」
 冷や汗が吹き出て、身体が燃える程に熱かった。息苦しい。なんなんだ。なんなんだ、いったい。
「貴方の行いは許される内容ではありません」
 酷く冷たく、アインツの声が述べた。
「貴方の命で贖って頂きます」
 その瞬間だ。アインツの身体から黒い風が巻き起こった!
 風は固まって黒い翼に変化し、指先を覆って白い腕に文様を描いた。頭の瘤を感じた場所から、羊のように捻くれた角が生える。見た目の変化だけじゃない。アインツの雰囲気も劇的に変わってしまっていた。あの優しい可愛いアインツの面影すら感じられない、全くの別人になっちまったようだ。
 ガナサダイと名乗った偉丈夫は、身体を震わせて笑った。優雅とも言える手振りで、慈愛溢れる声色でアインツに語り掛けた。
「そのような無粋な出で立ちの者に殺される程、このガナサダイ零落れてはおらぬ。我が城へ来るが良い。身なりを整えたら、好きなだけ復讐の機会を設けてやろうぞ」
 身を翻して歩みだしたガナサダイに、アインツもゆっくりと着いて行った。俺が声を掛けようとして、アインツは振り返った。
 アインツが燃える瞳で言った。瞳の色が、紅い。
「私は大丈夫です。ケネスさん」
 何が大丈夫なんだ。ガナサダイを殺せるから大丈夫って意味なのか?
 俺が伸ばした手はアインツには届かなかった。